イタ子の口寄せBlog

現代社会に疲れたイタ子のBlog

最初から人間のゴミになりたかった奴はいない

こないだ北陸の方で、朝3時半に包丁を持って騒いだ人間のゴミ(38)が警官に発砲されて一発で死んだ事件があった。

まぁ、「人間のゴミ」という呼称は、その事件に関してネットで野次馬をしていた人間の一部が用いていた呼称です。

「人間のゴミ」…まぁ確かに。

「38歳」「午前3時半」「包丁」「年老いた両親」というキーワードから連想されるものは「働いていない(働けていない)ひきこもり」「多分脳や心の病気」。

ニュースを聞いての第一感は「ああ…大変だな…ここのお宅も…大変だったろうな」「両親は息子が死んで、悲しいことだけれどもホッとしているところもあるかもな」「でも悲しいな」だった。

朝方3時半に、大の男(38歳)が包丁を持って騒ぎ、一度家からの110番通報、即息子に遮られ(多分)、その後知人宅へ駆け込んでの110番通報、呼びたくなかった、できれば警察を呼びたくはなかった、でも呼ばざるを得ない状況だった、そして呼んだ警官に、歯向かわなければいいのに強がって歯向かう息子、威嚇射撃などなく銃弾は一発で人間のゴミに命中、死。


「The 社会」の側の「どうせ今後もグズグズ騒ぐろくでもない社会のゴミ、人間のゴミはここで処理(殺し)しとけ」という気持ちもわからんではない。わからんではないが、最初から社会のゴミ、人間のゴミになりたかった人間というのもいないのではないかと思う。

いないよね、いるわけがないよ、「僕も、私も、いつか人間のゴミ、社会のゴミになるんだ!!」なんてね、思うわけがないじゃないですか。

流れ流れて、追いやられて、気がつけばいつの間にか社会のゴミ、人様に「人間のゴミ」などと呼ばれるようになっていた。

今、人様に蔑まれるような立場にいる人も、最初から蔑まれる立場に立ちたかった人なんかいるわきゃない。

「蔑み」

まぁ、「まとも」な側に立てている人間は、ホントに些細なことでも相手を蔑むものだ。

いや、「コイツは蔑んでもいい」というお墨付きが与えられると容赦なく蔑む、と言った方がいいか。

働けていないだけで「人間のゴミ」などと呼ばれる社会。まぁ多分働いている側も幸せじゃないからそういうことを言って見下したいのかもしれないですね。

もっと素朴に、プリミティブに(野良として生きる)

例えばさ、「もしかしたら、外国に行くかもしれないから、もしそうなったら、外国の人相手に日本語を教えたい」となったときに、「日本語教師」で検索をすると、まず出てくるのは「日本語教育能力検定試験」だったりして、まぁ、そりゃそうなんだけど。

それはそれとして、文法の五段活用はもちろん大事なんだけれども、「日本語教育」を名乗るからにはもちろんそうなるんだろうけれども、もっと素朴に、プリミティブに、語弊があるかもしれないが、気楽に、楽しく、日本語を教えたいじゃん。「そんな奴は日本語教師を名乗るな」と言うのもわかるけれども。



文法五段活用を覚えようとしているうちに、私の中の、原初的な、プリミティブな気持ちが死んでいく。



まぁ、インターネットの中には、「日本語教師になる方法」として、「①インターネットでいきなり日本語教師を名乗り、生徒を募集する」というのもあった(次に「②日本語教育能力検定試験に合格する」「③420時間教育を受ける」と続く)。



正直、「資格とかすっ飛ばして、いきなり日本語教師を名乗る」方が楽しそうである。



じゃあ、「日本語教育能力検定試験」を受ける人は何を求めているのかというと、「日本語教師」というきちんとした能力を得て、「教師」として、「雇用されること」を望んでいるわけだね。




つまんなくない?????




いや、ちゃんとした生き方だ。

現代で生きていくとはそういうことだ。




この折りも折り、新型コロナウィルスが流行っていて、中には「ここ50年ぐらい続いてきた社会システムが一変するのでは」などということを言う人も出てきている。



まぁでも、人間の科学力は大したものだろうから、AIDSが発生から30年経った今、死なない病気になっているように、新型コロナウィルスもただの風邪になるんだろう、そのうち(この意見は短期的な現状とは合致しなかったので散々怒られた)。



そうすると、長期的に考えれば、そんなに社会は変わらないんじゃないかという気もする(回復には時間がかかるかもしれないし、もしかしたら回復できないかもしれないけれども…)。



まぁそれはそれとして、420時間勉強して、文法も完全に覚えて、「日本語教師」になって、雇用されることを目標とするのは「つまんないよな」という話。

それは、まぁだから、ただ単に私の個人的な感覚の問題なんだけれども。





死ぬ。





雇用されることを望んで行動している間に死ぬ。





私の中の気持ち、原初的な「日本語を教えたい」という気持ちが死んでいく。





雇用されると死ぬ。





いや、私が言っていることは、ちゃんとした日本語教師として生きている人を批判するものではありません(正直、半分ぐらいは批判してるけど)。



いや、だから、生き方、生き方の違いの話よ。

ちゃんと、きちんと、枠の中で生きる生き方もあるけれども、生け簀の外で、野良のように生きる生き方もある。





おらは野良で行く。





まぁ、「日本語を教えるからには文法もマスターしておけ」というのは、それはその通りだと思います(幼児とか子どもに日本語を教えたいかもしらん)。

この世の嫌なとこ

この社会のさ、いきなり剥き身というか、いきなり200%全開で行かないといきなりリンチされるような感じが嫌いよね。シャレが利かないっていうかさ。

すべてにおいて余裕がないというか、なんでそんなに真剣モードなんだよっていうか、たかが人生なのに。


だからさ、まず家。家がさ、近すぎるじゃん隣と。関東。

近ぇよ。ホント貧乏くせえんだよな。建ってる家は立派だし、いい車も停めてるんだけどさ、自前のせっまい駐車場に。

家がビッチリビチビチ詰まってて、隣の家のインターホンが聞こえるとかどういうことよ。

そんで、その隣近所のまっとーな人間に、まっとーな民として土地と家を買って挨拶しに行くときに、5,000%出力全開で行かないと「感じ悪い」といってリンチされる、そういう感じがあるじゃない。

嫌いだわ。


そもそもさ、日本って、想定している人物像が究極に限定的っていうかさ。

「正社員」「土地」「家」「車」「その嫁」みたいな人しか人として認めてないもんね、その辺の人が。

「非正規」「アパート」「車なし」「自転車」「その嫁」みたいな人なんか、まぁ、それはかろうじて人だけれども、「正社員」たちからすれば、近所で関わるべき相手とはみなされないよね。その方が断然いいけど。

これが「無職」「アパート」「移動手段は徒歩のみ」「独身」とかだと、どうなるんだろう?っていうか、こっちも事前に察知して関わらないようにしようとしか思わないけれども。


生き方が狭いっていうか、選択肢がないっていうか、例えば「主婦」…というか、「結婚していて子どものいる女」だと、「結婚していて子どものいる女」同士で共通のコミュニケーションを取れないとそれだけでコミュニケーション強者の側の女が、コミュニケーション弱者の側の女を「感じ悪い」と断定して決めつけてそれを表してくる。攻撃してくる。そういうところが嫌い。

だから例えば、そんなことはまずないけど、私が誰かと結婚します。

そしてダンナは資金力があったので、その辺に土地を買い、家を建てます。

そして引っ越します。

そこで隣近所に挨拶をしに行きます。

その時や、そのあと道ですれ違った時とかに、出力5,000%で行かないと「何あの人、感じ悪いわよね」となる。

出力100%じゃ全然低い、全然足りない、「感じ悪い」と言われる、リンチされる(「あそこの家の人、感じが悪いのよ」と噂話をされる)。

出力5,000%でようやくどうにか。

人間ってだから動物なんだよな。

自分の認知の中に入ってきた人が誰であれ、特に自分が「コイツはいいや」と思わなかった人の態度がはかばかしく感じられないと、不愉快になる。

猿が目が合うと襲ってくるのと一緒。

自己破産はバンバンしていい

新年から怒られそうなタイトルです。

でも、私がこの感想を持つに至ったのは、過去の苦い経験があるからなのです。



現代社会では、経済的に一人立ちすることが「立派なこと」とされています。

自分の住まいの賃料、食費、水道光熱費などの生命の維持のために必要なお金、税金などの支払い義務のあるもの、結婚して、奥さんと子どもを養うお金、子どもを学校に通わせるお金。

これらをすべて、第一次産業から置き換わった、第二次産業第三次産業で賄う必要がある。



第一次産業と第二次・第三次産業の大きな違いは、直接お金をもらう労働か否か、というところ。

賃労働。

サラリー。

サラリーマン、サラリーウーマン。



高度に社会が発展して、第一次産業が主体だった世界から、第二次・第三次産業まで幅が広がり、人間が生きることはある意味非常に楽になった。

何しろ、直接お金をもらえる。

そして、そのお金で買えるものがその辺で簡単に手に入る。

自給自足で生きていたご先祖様の時代からは考えられないほどの恵みがあります。


食べ物が。
すぐ買える。
ひもじい思いをしなくてもいい。


電気は使い放題、暖房器具もあり、寒い思いをしなくてもいい。


喉が乾いたらすぐ水を飲める。


自分の努力だけで、お金がすぐに確実に手に入り、自分の努力いかんで、収入を増やしていける。



私はもう中年なのですが、私の父親の世代(団塊の世代)でこの環境が整った。

お祖父ちゃんの時代までは、もうちょっと不便だったはずです。

お祖父ちゃんは、職業は農業だった。小さな船も持っていたので、ちょっと魚も捕ったかもしれない。

大正~昭和初期の実家近辺の状況というのは想像がつかないけれども、商店は街にはあっただろう。
でも、現代のように頻繁に買い物をできる、というようなものではなかっただろう。

おそらくお祖父ちゃんまでは井戸で水を汲んでいたはず。米や野菜を作って、それを農協に入れてお金をもらっていた(の?システムよく知らないけど)。

それが今や、第二次・第三次産業で直接賃金をもらい、その賃金で生きていくためのお金を賄うのがデフォルトになった。

もちろん、昔と変わらず、第一次産業も職業の選択肢としてはあるけれども、大方の人にとってはその選択はあまり現実的ではない。

大多数の人にとっては、直接賃金をもらう第二次・第三次産業しか選択肢がない。



ここで、突然、「夢」というものが出てきます。

「夢」と、「現実」は、食い合わせが悪い。

「天ぷら」と「西瓜」ぐらい、食い合わせが悪い。

いや、正確には、「私の中だけで」、特別食い合わせが悪かった。


世の中には、「夢」を抱いて、「現実(賃労働)」と折り合いをつけて、夢を叶えようとしている人がいる。

「現実(収入)」が少し苦しくても、それは「夢」を叶えるために必要な先行投資で、「夢」もクソもなく、「現実(賃労働)」だけで生きろ、とは、誰も誰かに強制することはできない。




強制したんですね、昔の私は。




その結果、人の「夢」を奪い、人一人の人生を取り上げた。




借金ぐらいでガタガタ言うなっていう話なんですよ。

幸い、現代には、「自己破産」という制度がある。

どういうわけか、「自己破産」という制度がある。

どういう仕組みなのか、わからない。

何の権利なのかも、わからない。

ただ、「もう無理」となったときに、借金を帳消し(※語弊)にできる。




話は冒頭に返り、


現代社会では、経済的に一人立ちすることが「立派なこと」とされています。


自分の住まいの賃料、食費、水道光熱費などの生命の維持のために必要なお金、税金などの支払い義務のあるもの、結婚して、奥さんと子どもを養うお金、子どもを学校に通わせるお金。

これらをすべて、第一次産業から置き換わった、第二次産業第三次産業で賄う必要がある。



第一次産業と第二次・第三次産業の大きな違いは、直接お金をもらう労働か否か、というところ。

賃労働。

サラリー。

サラリーマン、サラリーウーマン。



高度に社会が発展して、第一次産業が主体だった世界から、第二次・第三次産業まで幅が広がり、人間が生きることはある意味非常に楽になった。

何しろ、直接お金をもらえる。

そして、そのお金で買えるものがその辺で簡単に手に入る。

自給自足で生きていたご先祖様の時代からは考えられないほどの恵みがあります。


食べ物が。
すぐ買える。
ひもじい思いをしなくてもいい。


電気は使い放題、暖房器具もあり、寒い思いをしなくてもいい。


喉が乾いたらすぐ水を飲める。


自分の努力だけで、お金がすぐに確実に手に入り、自分の努力いかんで、収入を増やしていける。




まぁでも、そこに「夢」がないわけです。
面白くも、楽しくもないわけです。



いや、自分の「夢」と、「現実(賃労働)」が合致している人もいる。

もしかしたら現代は、「夢」と「現実(賃労働)」を合致させるところまでやることが求められているのかもしれない。

でもまぁ、それができる人はほんの一握りの人かもしれない。
いや、案外多いのかもしれないけれども。

「俺は「夢」と「現実(賃労働)」を合致させるために努力をした!!」という話かもしれない。

お説ごもっともでございます。



それはそれとして、「現実(賃労働)」だけで生きろ、とは、誰も誰かに強制する権利はない。

ないよね、ないだろ、だって、

「借金をするような生活は良くない、借金をせずに、自分で自分の生きていくための金を現実的手段(賃労働)で稼ぐ、なんなら貯金もする。それが立派。そのためには現実的な賃労働を一生続けろ」

だなんて、そんな面白くもクソもない生活。



「夢」と「現実(賃労働)」が合致している人はいい。

「夢」と「現実(賃労働)」を合致させるための努力も偉い。

でも、みんなが大学に行って「夢」を叶えたら、コンビニで働く人がいなくなってしまいますね。


「夢」と「現実(賃労働)」を合致させている「努力の人」も、コンビニは使うわけだよね。私は「使うな」と言いたいけどね。

使うなよ、コンビニ店員を見下してるお前にコンビニを使う権利なんかあるわけないだろ。


かんわきゅーだい。


「「夢」と合致しない、つまらない「現実(賃労働)」だけをやって生きていくのが人生、立派」だなんて、他人に強制してはいけない。

そんな面白くもなんともない生活を続ける人生と、夢を追って借金して自己破産する人生、どちらかを選べと言われたら、間違いなく自己破産する人生の方を選んでいい。

全然いい。

借金ぐらいでガタガタ抜かすな。

借金しても死なないし、自己破産しても死なない。

そのあとも生きていける。

体が死なない限り、自分で死のうとしない限り、生きていける。

だから、自己破産、全然バンバンしていいから。

一人一人の心の中に神社はある…のか?

神道アレルギーです。

とくに理由はない。

スピリチュアルブームだとかで、神社に行くような人に対するアレルギーかもしれない。

スピリチュアルなものが嫌い。

だから、ロンブー淳もあんまり好きじゃない。

この間Eテレの神社巡りの番組に山ちゃんが出てて、それでちょっと嫌いになった。

というぐらい、神社やスピリチュアルについてアレルギーがある。

でも、ホロスコープにはスピリチュアルにも適性があると出てる。

不安になると矢も盾もたまらずに占いにすがる。

不安定。

スピリチュアルが大嫌いなのにスピリチュアル要素満載なイタ子です。


こんなのをツイッターで読みました。

https://twitter.com/tonishi0610/status/1204538958639587328?s=19


私考えたの。

「神社に行かない人は、何かをないがしろにしてる」

果たしてそうなのかな?って。

結論から言うと、神社は人々の中にある宗教心みたいなものを、表した「結果」だと思うのよね。

まぁ、確かに神様はそこにいるということになっているけれども。

ん?結論がぶれてくるかもしれない。

だからさ、人間って、普段の生活の中で、「これは嫌だな」とか、「なんとなくこうした方がいいな」ということがあって(例えば、テーブルには腰を掛けない、とか)、それが宗教心のようなもので、それらを結晶化したものが神社なんじゃないかと思ったのです。

だから、わざわざ神社に詣でなくても、一人一人の心の中に神社はあるじゃん、という結論に持っていきたかったの。

でも、よく考えたら、神社には神様がいることになっていて、その神様にお願い事をするんだもんね。

説が怪しくなってきた。

まぁでも、やっぱり基本は個人だと思う。

人間(それは「日本人」なのかもしれないが)という生き物の中に、「これは嫌だ」とか、「神様にお願い☆」という気持ちがあって、それが現れた物が神社なわけじゃない。

だから、別に神社に行かなくても、人間なだけで、心の中に神社を持ってると思うのよね。

今日はこれに気がついてドヤ顔のイタ子でした☆

今、「日本(日本人)とは・・・」みたいなことを語りがちでヤバイ人は

「日本とは・・・」「日本人とは・・・」みたいなことを語るヤバイ人は、これまではダントツで黒鉄ヒロシだったけど、新たに加わってきたのが土井善晴

 

土井先生さ、前からちょいちょい、「ん?なんかヤバイな」っていうことを言ってるよね。

 

「日本人の基本・・・キレイ、汚い」みたいなことをこの間テレビで言ってた(別にキレイなのが好きなのは日本人に限らないと思うのだが・・・。私は日本人にも関わらず、汚好きだし・・・(まぁ多分土井先生はそういうことではなく、清いとか穢とか、その辺を言ってるんだと思うけど))。

 

だからその「日本人」ってなんなの?

血なの?血だとしたら民族?日本人って、血が同じ民族なの?

そして血が同じなら、感じ方や美意識も同じなの?

 

まぁ、冷静に考えて、いくら島国日本に住む日本人と言えども、「みんな血が同じ」ということや、「血が他の国の人より近い」ということはないと思われる(そりゃ西洋人よりは近いのかも知れないが、同じ日本人同士でも、韓国の人より血が近いってこともないと思う(よく知らないけど))。

 

それとも長きにわたるお互いの関わりの中で、「これが最上」「Win-Win」という妥協点、美意識を編み出して来た、同じ価値観を共有する共同体の仲間っていう意味?

 

それならまだわからないでもないんだけど。

 

まぁさ、日本という共同体の、長い歴史の中で、確かに連綿と続いて来て結晶化さた作法、習慣、建設的な生活というものがあるんだろうけれども、それは、各々の家に伝わっていて、それは少しずつ異なっているのではないの?

 

それとも「日本人」ならみんな同じなの?

 

作法や美意識の大本の家があって、そこから各家に「これがお手本」として伝わっているの?

だから「同じ日本人」なら、みんな感じ方が同じなの?

 

わかった、嫁に行くと伝わるんだ、そして平均化されていく?

 

なんか、だんだん、私が問題なのかも知れないと思ってきた。私、共同体とも切り離されて、家(テレビ)と学校の往復だけで生きてきたからな。特別「日本人」という感覚に乏しいのやも知れぬ。

 

私は、国と個人、どっちが先かで考えると、絶対個人の方が先だと思うから、やたら「日本」「日本」って、今を生きている人が、後から「日本」や「日本人」をなぞりに行ってるような感じがしてそこが嫌なんだけど。

 

生まれたときから近所に神社があって、自分もそこにお参りする。

それをやるのは普通で自然なことなんだろうけれども、そういうのと、黒鉄ヒロシ土井善晴の語る「日本」「日本人」はなんか違う気がする。

 

今よくよく考えたら、土井先生はそんなでもないけど、黒鉄ヒロシが日本や日本人を語るときの、「日本人は中国人や韓国人より感性が優れていてお互いフィフティ・フィフティ、正義感がある、仁義がある」という考え方が嫌いだったみたい。土井先生はそこまではゆうてない。

 

でも、土井先生、船場言葉使ってて、京都人みたいで、そこもなんか怪しい。

京都や奈良、和歌山は日本の暗部という気がする。偏見すみません。