イタ子の口寄せBlog

現代社会に疲れたイタ子のBlog

もっと素朴に、プリミティブに(野良として生きる)

例えばさ、「もしかしたら、外国に行くかもしれないから、もしそうなったら、外国の人相手に日本語を教えたい」となったときに、「日本語教師」で検索をすると、まず出てくるのは「日本語教育能力検定試験」だったりして、まぁ、そりゃそうなんだけど。

それはそれとして、文法の五段活用はもちろん大事なんだけれども、「日本語教育」を名乗るからにはもちろんそうなるんだろうけれども、もっと素朴に、プリミティブに、語弊があるかもしれないが、気楽に、楽しく、日本語を教えたいじゃん。「そんな奴は日本語教師を名乗るな」と言うのもわかるけれども。



文法五段活用を覚えようとしているうちに、私の中の、原初的な、プリミティブな気持ちが死んでいく。



まぁ、インターネットの中には、「日本語教師になる方法」として、「①インターネットでいきなり日本語教師を名乗り、生徒を募集する」というのもあった(次に「②日本語教育能力検定試験に合格する」「③420時間教育を受ける」と続く)。



正直、「資格とかすっ飛ばして、いきなり日本語教師を名乗る」方が楽しそうである。



じゃあ、「日本語教育能力検定試験」を受ける人は何を求めているのかというと、「日本語教師」というきちんとした能力を得て、「教師」として、「雇用されること」を望んでいるわけだね。




つまんなくない?????




いや、ちゃんとした生き方だ。

現代で生きていくとはそういうことだ。




この折りも折り、新型コロナウィルスが流行っていて、中には「ここ50年ぐらい続いてきた社会システムが一変するのでは」などということを言う人も出てきている。



まぁでも、人間の科学力は大したものだろうから、AIDSが発生から30年経った今、死なない病気になっているように、新型コロナウィルスもただの風邪になるんだろう、そのうち(この意見は短期的な現状とは合致しなかったので散々怒られた)。



そうすると、長期的に考えれば、そんなに社会は変わらないんじゃないかという気もする(回復には時間がかかるかもしれないし、もしかしたら回復できないかもしれないけれども…)。



まぁそれはそれとして、420時間勉強して、文法も完全に覚えて、「日本語教師」になって、雇用されることを目標とするのは「つまんないよな」という話。

それは、まぁだから、ただ単に私の個人的な感覚の問題なんだけれども。





死ぬ。





雇用されることを望んで行動している間に死ぬ。





私の中の気持ち、原初的な「日本語を教えたい」という気持ちが死んでいく。





雇用されると死ぬ。





いや、私が言っていることは、ちゃんとした日本語教師として生きている人を批判するものではありません(正直、半分ぐらいは批判してるけど)。



いや、だから、生き方、生き方の違いの話よ。

ちゃんと、きちんと、枠の中で生きる生き方もあるけれども、生け簀の外で、野良のように生きる生き方もある。





おらは野良で行く。





まぁ、「日本語を教えるからには文法もマスターしておけ」というのは、それはその通りだと思います(幼児とか子どもに日本語を教えたいかもしらん)。